
#4. 春なれや
松尾芭蕉の残した日本語表現の粋を手掛かりに、そこからJumpして一曲の音楽作品を取り上げる旅の試み、再び。
Surely it is spring (In the nameless mountains a thin haze)
春なれや(名もなき山の薄霞)
春という単語は現代にあっても古代とほぼ同じ意味を表し、ほぼ同じような頻度で毎年2月から5月にかけて多用される。
入学、進学、就職、といったイベントの多い時期だけに、何かが始まる、という雰囲気のみで浪費されることも多い。
とは言え、誰でもが認識する言葉だけに、その後に続く「なれや」は判ったような?判らないような?とにかく21世紀の日本人が日常の中で触れることなどほぼ有り得ない存在である。調べてみれば、この「や」は疑問、反語、詠嘆という3つの意味合いを持ち得るそうなので、「春なのだろうか」「春かと思ったけど、春じゃねぇよ」「いぇーい!春だぜぃ」という3相を持ち得るらしい。
最初のふたつは真逆のニュアンスになりかねないので、この言葉のカメレオンぶりはすさまじい。江戸時代にあっても話し言葉としては登場しなかったのでは?と思われるが、現代日本語には似たようなマチエールすら見つけにくい語感、意味を持とうという積極的意志が感じ難い不思議な透明感が漂っている。
さて、春をテーマにした音楽と言えば、Vivaldiの「四季」を思い出す人が多いに違いない。ヨーロッパにおける季節の変化のイメージを表しているからか、「四季」の組成は非常にヴィヴィッドだし、直接話法とも言えるほどの明解な構成で語りかけてくる。
ソロパートとアンサンブルがほぼ交互に展開していくリトルネッロ形式なる様式で主題と変奏が明解に示される表現、On Offの境界が積み上がっていく雰囲気はバロックならではで、考えようによってはモダンでデジタルな感性とも言えるだろう。何となく春めいてきました、とか,気付いたら春でした、という日本の四季とはいささか違っている事は間違いない。
だとすると、日本的な表現の代表格はキャンディーズの大ヒット曲「春一番」という事になるだろうか。
<もうすぐ春ですね、ちょっと気取ってみませんか>という穂口雄右さんの歌詞は曖昧に転化していく季節の雰囲気そのものだからこそ、70年代の人々の心にすんなり溶け込んだ。「春一番」という単語はただ一度の南風強風を表すもの、のはずだが、この曲の歌詞は間接話法の上、細かな客観情景描写が驚くほど多い。唱歌の世界につながる古典性が、今となっては新鮮なほどである。
ただ、メロディーのRhythmはカッチリとタイトな上、ブロック毎に律儀にGuitarのオブリガートが応えていく構成はVivaldiほどではないにせよバロック感すら感じられるのが面白い。歌詞の叙情性が美事に準主役の立ち位置に配置されているのが、もし意図的な判断だとしたらかなりクレバーな手口だと言うべきである。当時のトレンドに即するとしたら、蛙の子が水を蹴っているとか、日だまりの雀が楽しそうとかいった表現はかなり古風と思えるけれども、吉田拓郎始めブレークしていたフォーク界のスター達の言語世界を取り込んでいることは確かであり、しかもフォークソングとは一線を画す軽やかさを感じさせるから鋭い。
Vivaldiの「春」には,ヴァイオリン協奏曲と題されている音楽なのに作曲者自身の書いたソネット、叙情詩とでも言うべき文章が作品の1部として存在しているのがユニークである。花の名前が列挙されていたりするこのソネットが「春一番」の日だまりの雀感覚につながっていて、音楽そのものの肌触りと言葉に少し距離感が有る点も近い。
春という季節には物事の起点というイメージがあると同時に、別れやズレがSetになっているのだ。
アントニオ・ヴィバルディ ヴァイオリン協奏曲
第1番ホ長調 RV 269「春」(La Primavera)
キャンディーズ 春一番 穂口雄右作詞作曲

