
#6. 薄霞
松尾芭蕉の残した日本語表現の粋を手掛かりに、そこからJumpして一曲の音楽作品を取り上げる旅の試み、再び。
(Surely it is spring In the nameless mountains) a thin haz
(春なれや名もなき山の)薄霞
薄霞という言葉は絶妙の距離感を感じさせる、そして静けさを内包した美しさをたたえている。
闇夜と言われれば接触しているかの如き近距離感があるし、朝焼けと言われればやはり遠距離の色彩が浮かぶ事を考えると、近からず遠からず、でも空気の冷ややかさやしっとりした肌触りも伝わる言葉である。
でも、地球上には多分,薄い霞が存在しない世界もあるに違いない。
砂漠の国にも霞はあるだろうが、薄いと表現するような光景はあるのだろうか。北極にも南極にも無さそうだし、日本語であるという限定を外してもある範囲の緯度にあってはじめて成立するような気がしてしまう。
体験的に考えると,イギリスにも薄霞はあるが、日本的感覚よりも湿度が高いように思える。牧草地の霞の中からピンクフロイドを思わせる牛がいきなり現れる、というSceneはよくあるけれども、大抵は霧に近いものであっという間に世界を全部包んでしまうことが多い。
源氏物語には薄霞がに合うけれども、夜霧のIMAGEが強いシャーロック・ホームズには少しばかり淡色過ぎて似合わないと言うべきか。英訳のthinには「痩せた」というIMAGEが強くて、僕には薄霞は豊穣な時空間なのに、という違和感が感じられてしまう。何かが不足しているから薄いのではなく、むしろ全部を覆ってしまわない気品と穏やかさがその薄さを美しくしている、と思えるのである。反対に深い霞(深ければ霞ではない?)をdeepとかthickとするのは納得出来るのだけれども。
さて、その霞をmistではなくhazeと訳されてしまうと、どうしてもジミー・ヘンドリックスのギターリフが聞こえて来てしまう僕である。全く薄くないし、くすんだ、もしくは濁ったもや、なのか煙なのか、とにかくドラッグが蔓延していた時代のロックの代表格なので、芭蕉には聴かせられない音楽に違いない。
では、日本語の語感で思い浮かべてみよう、として耳を澄ませてみたら、こんな曲が現れてきた。
ブラッド・メルドーのALBUM「L:argo」の1曲目「You’re vibing me」の冒頭部分、遠くにたなびく、それこそ霞のような木管楽器のアンサンブルのこちら側にpianoの単音メロディが静かに語り始めるあたりの世界である。
ブラッドさんは有り余るほどのテクニックの持ち主なのに、ほんとうに一音ずつメロディーの物語を歩んでいく。耽美、かつ優美なのだが安易にセンチメンタルにはならない、その感じがまさに薄霞、そう言うしかない、と僕は感じている。
実はこのアルバム、所謂JAZZファンのみなさんにはあまり評価されていないらしいのだが、ジャンルを超えた現代作品の最高傑作のひとつだと僕は勝手に選定している。
始めてこのアルバムを聴いた時の空気の透明さは忘れ難い。遠近感のある音楽が商業的価値を失って久しいのに、多分ドビュッシーやフォーレに聴かせても「なかなか良いね」と絶対に言うに違いない音楽、そんな物語を語れる音楽家は現在貴重な先達である。
そして最後に、日本にもちゃんとそうしたアーティストがいることを補足しておきたい。山本拓夫率いる木管アンサンブル「ハロクライン」は、薄霞感覚にあふれた素晴らしいアンサンブル、必聴の音楽である。

