#05. 普通に流れているだけに
なったのは何時?
Head Phone Oasis 見聞奏記
Back-Ground俳句というものは想像し難い。
愛する句を心の中に持ち続けている、という粋人はもちろん居るのだろうが、仕事をしながら俳句を読む訳にはいかないので、音声化するか映像化するか、しない限り他の事象と同時進行は難しい。
本来、音楽も同様で、特別な集中を基盤としていた時代は長かったはずだ。
仕事唄はパラレルじゃないか、と言われるかもしれないが、田植え唄を歌いながら機織りをする人は居なかった。
現在、所謂音楽産業の状況がどんなジャンルでもLiveの価値が見直されているのは、そこに「音楽と正面から向き合う」緊張感や高揚感があるからに違いない。何時の頃からか、街中にも茶の間にも、選んだ覚えも無いのに氾濫するようになって、ひとと音楽の付き合い方も変わってしまったが、考えてみれば人類史の中ではごくごく最近の出来事でしか無い訳である。
音楽の祭祀性はそう簡単には無くならないからこそ、何万人規模のLiveが成立すると言えるのでは無いだろうか。
そんな中で、僅か数十人の人が同じ場と時間を共有し、物理的にはひとりずつ個別に音楽を受け取りながら、ある種のメッセージを共有する<headphone Live>には深い祭祀性の趣が在る。ブラッドベリーの「華氏451度」の終盤、ひとりの人がひとつの本となって森の中を行き交う、あの不思議なIMAGEが僕には感じられるのだ。
植物に詳しいひとにGuideされると森や林は別物のように魅力を増す、観劇しかり、サーフィンしかり、囲碁しかり、要するに何でも固定観念からほんの少し浮遊して見ることで、世界の素敵さを楽しめるのだから、好きな音楽にheadphoneで限りなく近づいてみるのは如何?
しかもそこには、自宅で没入するのとは少しだけ違う、コンサート後ならではの楽しい会話もあなたを待っているのだ。
< 見聞奏記 完 >

