
#1. 野ざらし
2009年〜2010年にかけて、松岡正剛さんからのそそのかしに乗じてWebサイト「ISIS本座」に連載した「千律譜BASHO」を引き継ぐ言葉と音楽をテーマにしたコラムを再連載します。
松尾芭蕉の残した日本語表現の粋を手掛かりに、そこからJumpして一曲の音楽作品を取り上げる旅の試み、再び。
Weather beaten(Wind pierces my body To my heart)
野ざらしを(心に風邪のしむ身哉)
野ざらしという言葉を読むことはあっても、自らの肉体的感覚とシンクロして言ったり書き留めたことは無い。
たまたまラッキーにも、雨を避ける屋根も、風を遮る壁も失い、野営せざるを得ない、という経験をせずに生きてきただけであって、今この瞬間にも野ざらしにされている人達が、この星には数え切れない程生きている。それに、この言葉は既に命を失った元人間の骨(特に頭蓋骨)が野原に放置されている、という意味も持つ。芭蕉が生きた時代には、実際問題として行き倒れる旅人や、飢えて命を落とす人も少なくはなかった事だろう。どちらに解釈するとしても、見えてくる景色は荒涼とした空気、人なつこい救いの気配は感じ取れない。
同じ江戸期の文化である落語にも「野ざらし」という演目があった。こちらは美女幽霊が登場するお色気加味説話だけれども、そもそもその美女の野ざらししゃれこうべを大川で太鼓持ちが釣り上げて、供養して上げたお礼にやって来る、というのだから、冷たい風は充分に吹いている。
僕にとって、荒野、冷風、旅、それらを全部背負ったひと、というIMAGEは「リア王」につながっていく。
栄華を失い、キャロル・キングが歌ったような<People can be so cold>の重荷とともに歩む盲いた老王、更にはその王を密かに守る賢臣の姿は、状況も設定は違うとは言え、細道を歩く芭蕉と楚良の姿にも重なる。
という訳で「リア王」にちなんだ音楽を探してみると、意外にもロシア・ソビエトの作曲家の名前が浮かび上がってきた。
表題作品では無く、純然たる映画音楽や舞台のためのものとは言え、ショスタコーヴィチとハチャトゥリアンという名前は少し不思議な感じもある。BBCでは何回もドラマ化、映画化を手がけているので当然イギリス人作曲家も関与しているはずだけれども、このふたり程のインパクト有る名前は見当たらなかった。
では聴いてみたい、と思ったがそれほど簡単では無さそうである。ショスタコーヴィチ曲はライブラリ化されてはいるのでざっと聴いてみたが、ハチャトゥリアン作品は音源化されているのかどうかも不明だった。何故、このふたりが「リア王」と関わったのか?能動的では無く、委嘱されただけのお仕事モードだったのか?叶わないと思えばこそ、色々とご本人達に聞いてみたい気分になるものである。
原作者に責は皆無で、パクって宇宙戦争のIMAGEを植え付けたハリウッド勢の仕業だが、ショスタコ「リア王」は聴いていると「ジェダイの騎士」を思わざるを得ない。つまり良質の映画音楽…。 時々本性が垣間見えて、深遠な苦悩が顔を出すけれども⋯
それでも芭蕉につながる橋は残念ながら架かっていない、ように思えた。さて、ハチャトゥリアンさんはどんな「リア王」を描いたのだろうか。

